あたしの一日は、信じられないほど明るい朝から始まる。
 瞼越しに太陽が突き刺さり、目を開ければそれが頭上に光り輝いている。
 大きな天窓のついた子供部屋。
 新築したばかりの時は、朝起きるのが毎日楽しみだった。
 だけれども今は、幼い時と同じ光の中深い絶望と共に目覚める。
「……夢だったら、良かったのに」
 擦れた声で今日も呟いて。
 そして絶望を足されるだけの一日が、また始まった。
 
 十八畳ある広いカーペットに素足を落として、ベッドの直ぐ傍に置いてあったスリッパを引っ掛けて歩き出す。
 理想的な日当たりが白磁の壁を反響し、一歩部屋を出れば眩しいほど。
 外はまだ肌寒いのに薄手のパジャマだけで歩けるのは、ソーラー発電による暖房がいつでも効いているから。
 広くて、明るくて、明るいおうち。
 だけれど動くものはあたし独り。
 大きな窓から外を見ても通勤なんてしている人間は一人も居ない。もちろん車なんて、電車すらも。
 世界は死んでいた。
 比喩ではなく。あたし以外の全てが事実動きを止め死体となっていた。父も、母も、向かいの家の人も両隣の家の人もその更に隣に住んでいる人も。町中の人が。
 逆に言えば、この町だけが死んでいた。
 隔離されたのだ。
 この町の死の病を恐れて。
 あっさりと。
 あたしたちは見捨てられた。

 それは別にかまわない。
 
 高校生のあたしから見ても、その政府の判断は正しかった。何故もっと早くに隔離閉鎖しなかったのかと疑問に思うほど。
 病の名は『黒死病』
 もちろん十八世紀に流行ったペストとは別物。
 患者の症状を見た者が。現状を伝える報道者が。素直に口に出し受け入れた言葉だ。
 『黒死病』
 腐って、黒くなる。爪の先まで。眼球の白目まで。
 正に『黒くなって死ぬ病』。
 それが初めて発見されたのはこの日本。次いでアメリカ。そしてヨーロッパ。医療技術が進んでいるはずの先進国が真っ先に発症した。
 感染方法は飛沫感染と主に接触。爪、歯、血。何でもいい。腐って黒くなったその部分が僅かでも粘液に触れるか、傷口を介して感染する。
 その感染力は凄まじく。
 一人目が発見されて一週間後には、もうこの町の域を出ようとしていた。
 政府は発症を確認して八日後、自衛隊を動かしてこの町を閉鎖した。
 それから更に一週間後。
 ここは死の町になった。

 これは神による裁きか?
 自然の淘汰か?
 違う。これは。
 偶然という、必然だ。

 あたしが生きている理由なんて分からない。
 父が死んで、母が動かなくなって。知っている人も全員死んで行って。
 気がついたらという状況。
 ただ生きているという状態。
 そして今日も、惰性のために食料を探すため歩いているという、現状。
 いつもは可愛らしく三つ編みなんかにしていた髪は広げっぱなしで、紐をキツク絞めたブーツを鳴らしてゴミだらけの道路の真ん中を歩く。
 チェックのコートと、その色に合わせた緑色のマフラー。
 歩きやすいように細身のジーンズと。
 どうでもいい茶色のセーターを中から。
 そして、一番重要な食料を入れる鞄は、登山用の馬鹿でかいもの。
 ちぐはぐだけれども見る人が居なければ服装なんて関係ない。考えてみればファッションというのは、初歩的で最重要な社交行為だ。
「お空はこんなに青いのに」
 流れてゆく雲を見ていると、どこかで聞きかじった歌詞が口をついて出た。だけど続きが分からなくてそれだけ。しかも棒読み。
 自分の行為に噴出しながら、破壊されたコンクリートを蹴飛ばし道を歩む。
 行き先はデパート。
 十五分程歩いた所にある、私の食料庫。
 と言っても新鮮なものはもう殆ど無い、暴徒たちに荒らしつくされた一階スーパー部分。
 電気が落ちて窓も無いから薄暗くて、私は懐中電灯片手に勝手知ったる我が家のようにのし歩いていた。
 いつものように転がっている真っ黒な死体を跨いで缶詰の棚。一応長持ちするものを多めに取って置こうとチョイスする。
食欲を満たしてくれそうな豆類にスープ類。ビタミン類のために果物。それで最後に非常用の水缶も一つ取って。
 コレだけで鞄はずっしりと重たくなってしまった。
 惰性で生きていたって欲求は欲求。食い意地が張ってて何が悪い。とりあえず持ちきれる分持っているのだから分相応というやつだろう。
 だけれど最後の、アレだけは外せない。余計な手荷物になってもアレが無くては生きてゆけない。
「お菓子――」
 踏ん張った右足を進めようとして。
 コトリと、物音がした。

 最初に目が行ったのは、直ぐ傍に居た黒い死体。
 でもこの人は、昨日も、一昨日も一週間前も居た。
 そんなはずは在り得ない。
 ただの、物音。
「……ただ物が落ちた音」
 目を閉じて呟き、それを自身に信じ込ませる。
 大丈夫。
 もう、アレは居ないから――。
 そして目を開いて。
 そこには、何も居なかった。
 馬鹿馬鹿しい一人芝居に噴出して歩き出す。望みどおりのチョコレートを手に入れて薄暗い店内を出れば、外は不安を吹き飛ばすような晴天。
「ばっかみたい!」
 歯をむき出してお菓子を入れた袋を回して叫んで、思いっきり背筋を曲げてブリッジした。
 そこには、真っ黒に変色した顔があった。
 目が。
 合った。どこにある目と? 声を聞いた。どこから出される声を?
「――う、あ」
 ゆっくりと腕を伸ばされてその爪まで黒い指が顔に触れる瞬間。

「あああああああああああああああッッ!」

 私ではなく、ソレが叫んだ。
 気がついたら尻餅をついて倒れていた。でもそれが幸いした。叫んでいた黒い女が、鳥の鉤爪のようにした手を、今まであたしの顔があったところに突き出していた。あの指先に一筋でも傷をつけられれば感染する。
 そして一瞬時が止まり、手に何の感触も掴めなかった女が、ゆっくりと私へ視線を落とす。
 白目の存在しない黒色の目。
 その瞳に見下ろされ、全身を戦慄が走った。
 逃げる。
 本能だった。恐怖に突き動かされた身体は、荷物を捨ててすぐさま立ち上がろうとした。だが隆起したコンクリートに蹴つまずき全身をそこに打ち付ける。焦りすぎてバランスを取って走るという事が出来ない。後ろを見れば直ぐそこに黒いものが居る。
 アレだ。またアレだ。また来た。嫌だ。嫌だ怖い。気持ち悪い。嫌だ! 何でまだいるの皆もう死んだんじゃなかったの何で!
「来るな!」
 立ち上がって逃げるなんてことはもう出来なかった。どうやって立てばいいのか分からなかった。手近にあった石を引っつかみ、闇雲に投げまくる。拳ほどの大きな石が偶然に女の頭に当たって、そこから黒い腐汁が飛び散る。その様に絶句した。もう人間じゃない。コレが人間だったなんて信じられない。あたしもこうなるの? 脳まで犯されて化け物になるの?
「嫌だ……嫌だ! 来ないでよ死んでよ早く死んでよおッ!」
 込み上げてきた吐き気を堪え、四肢で這いながら必死に逃げる。必死なのに見れば数メートルと進んでいない。よろけ歩きながらも女のほうが早い。追いつかれる、触られる、感染してしまう!
「あ……」
 仰ぎ見れば、元は白い服を自らの腐った肉で黒く染め上げたソレが居た。生きているなら、吐息が掛かるほどの距離。嫌な臭いが。腐臭が、鼻をつく。ソレは裂けた口を開いて、まだら色になった舌と黒ずんだ歯を見せた。哂っているようにも見えた。そして押し出されるような呼気がかすかに聞こえ――。
「――たす けて」
 混じって。言葉が、聞こえた。
 助けを求める、人間の言葉。
「た す て、りゅ……」
 リュウ、と、名前を呼ばれた気がした。心臓が跳ねた。目の前にある顔に、ありえるはずが無い顔が重なる。嘘だ。ここまで変わってしまうなんて。嘘だ。
「さき、こ?」
 でも口をとめることが出来なかった。あたしは名前を呼んでしまった。認識してしまった。目の前にあるものが人間だと。
 早季子。
 クラスメイトだった。二年間同じクラスだった。毎日顔を見ていたのだ。
 これが、この化け物のようなものが、早季子?
 大人しいけれど結構な美人で、男子にも人気があって、人当たりが良くて優しい雰囲気を持っていた。白い肌と三つ編みと少し垂れた目が印象的だった。早季子。
 こう、なるんだ。
 こうなってしまうんだ。みんな。
 最後はこうなって、死ぬんだ。
「……早季子……」
 全身の力が、抜けた。
 ほんの数瞬理性を取り戻しただけの早季子は、このままあたしを襲って、あたしは死ぬだろう。体中腐った早季子にあたしは殺せはしないが、負わされた傷から入った菌であたしは死ぬ。
 避けがたい死だ。生き残っても、どうせ死ぬ。
 目を閉じながら、もっと早く諦めていれば良かったとさえ思った。楽になった。楽になったんだ。
 もう目が覚めるのは嫌だ。

 目を閉じかけていたその隙間に、それはチラリと映り込んだ。
 荒々しくて、無骨な、鈍色の輝き。
 それがなんだかを理解する前に、その長いシルエットは大きく弧を描き――水風船を叩き割ったような音が、辺りに響いた。
 「……え?」
 一度閉じてしまった瞼を開くと、あたしの目の前にあったはずのものがなくなっていた。
 そして代わりに、一人の少年。
「え?じゃねえ。馬鹿かお前。何で逃げねーんだよ」
 彼が頭を揺らし、逆光になっていた視界がクリアになった。太陽が彼の後ろに回ったのだ。
 そしてその顔を見た。無駄なまでに整っている、だけれどその均整の取れた美しさを裏切る皮肉気な笑みをその口元に浮かべる、彼の顔を。
 見とれていた。場所も場合も考えず。その個人が放つ魅力に取り込まれていた。彼が派手な黒のコートが風に翻る様を、ぼんやりと見詰めていた。
「――オイ。頭オカシクなったんじゃねーんなら、返事ぐらいしてちゃっちゃと名前とスリーサイズぐらいオレ様に答えろ。アホ」
 だが、その陶酔は対象である彼に断ち切られた。傍若極まりない暴言。一気に頭が熱くなり、そして冷える。
 怒鳴り返そうとして目にとまったのは、彼の右手に握られていた金属バット。球技以外に使い込まれていることが一目で分かるほど、歪にへこみ、たったいま叩き潰したものの腐汁を滴らせていた。
「――ッひ」
「あ?」
 閉口していると、膝元で何かが蠢いた感触を感じた。反射的に視線を向ければ、そこには頭蓋が割れ小さな痙攣を繰り返している……早季子。
 悲鳴を上げながら飛びのき、何も考えないまま少年に庇護を求めその背後に回りこんだ。少年はあたしに批難めいた視線を向けたが、それ以上に注意すべき対象に視線を戻した。
「ああ、死んでんじゃん。ゾンビじゃねえんだから、そんな映画みてえに生き返ったりしねえよ。今のは筋肉の弛緩だ」
「……」
「何だよショック状態か? 勘弁しろよ」
 目を見開いたまま震える私に、本当に面倒くさそうな声を出した後、背後に向かって誰かに呼びかける。他にも人が?意識を無理やり目の前の早季子のしたいから逸らして、彼に習い振り返る。
「――隼人! はやっく来いのろま! デべソ!」
「デべソじゃない! 勝手に人の身体を捏造すんな!」
 はやと、とよばれた彼は、少々足を引きずりながら瓦礫を超えてきた。返って来た声は金属バットを持った彼よりも高めで、聞いただけで明るい性格だと分かる。彼はあたしを見つけると、色素の薄い茶色の瞳をこれでもかと見開いて駆け寄ってきた。
「本当に居たんだ、生き残り! 声がするって言ったの、てっきりカイの勘違いだと思ったけどさ、さすが野生児な聴力だね」
「いっちいち殴りたくなるような発言してんじゃねえー。それよか、ウラ、見りゃ分かんだろ。ショック状態にあるお姫様をお慰めして差し上げろ」
「ろれつ回ってないよ……イタ! それで殴んないでよ! もー……ねえ君、大丈夫? 名前は?」
「……リュウ」
 一連の騒がしいやりとりに呆気に取られ、するりと返答が零れ落ちた。体の震えは止まっていた。直ぐ目の前に人間の顔が在る。黒くない。茶色の虹彩が並ぶ瞳に、柔らかい栗色の癖毛。優しそうで、少し頼りなさそうな笑顔が、今のあたしにとってはこれ以上ない安心感をもたらせる。
「りゅう? りゅうこさんとか?」
「違う……ただの、リュウ」
 しゃがみこんでいる私に合わせて、膝立ちの隼人が手の平を差し出し字面を問うてくる。まだうまく働かない頭で従うと、頭の上から、カイと言うらしい少年の声が降ってきた。
「竜のリュウか。かっけーじゃん。リュウ」
 呼吸が止まった。
 本当に久しぶりだった。名を格好良いと褒められるのも、呼ばれることさえ。
 あたし以外の人間が居る。
 人生で初めて、あたしはそう認識した。

「うん……ねえ、落ち着いた? もう、大丈夫?」
 ゆっくりと言われ、まるで大丈夫なことに気づいた。噴出していた汗は引いているし、両足にもちゃんと力が入る。立ち上がって、改めて彼らと向き合った。
「……あなたたちも……生き残り?」
 生き残り。なんだか、その言葉を口にするのがためらわれた。まるで世界に取り残されたようで。
「そう、なるかな?」
「まんまだろ。ただし、俺たちは外から来た生き残り。お前はこの町で唯一の生き残り」
「外……? ニュースで見てるけど、今現在四つの町以外で、感染が広がっていることは無いよ?」
 黒死病はこの町を入れて、他にも三つの地区で感染が確認された。どこの地域も同じように隔離封鎖されたと聞いて、そしてニュースで見ている。電波は何処でも届いて、電気はソーラーが生きていた。
「だから、その他の町から来たんだよ。つーか、全部のトコ回ってきた。ここは最後の場所。んでお前を見つけた。だから、生き残りは俺たちだけ」
 おもむろにカイが歩き出した。あたしの手を引いて。
 握られた事にも気づかなかった。いきなり引っ張られて、少々バランスを崩す。
 何百万も居た中で、生き残ったのがこの三人?
 頭がついてこなかった。想像する事が出来なかった。
「――詳しい話は落ち着いたトコでだ。お前、寝床はちゃんと在るんだろ? 自宅か? 案内して茶出せや」
 呆れる強引さが何故か似合う。その勝気な目元が笑い、あたしを横目で見た。その瞳は白目も黒目もある人間。だけれど、何故だか普通とは違うような――一般に言わせれば、おそらくカリスマ性とか言うやつを、否応なしに認めさせられた。
「まってよ――」
 声に振り向けば、律儀に私の鞄を持ってくれている隼人が追いついてくる。

 こうして、全てが終わりに向けて、始まった。

 





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